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整体Q&A

愉和の整体は、骨をボキボキやらないのでしょうか?また、痛いこととか危険なことはないでしょうか?

愉和の整体(愉和法)と、いわゆる整体とはまったく違うものと言ってよいでしょう。
特に、力で骨を動かすことはありません。 したがって、骨をボキボキさせることもありません。
もっと言いますと、アジャストの矯正、押圧、揉みほぐしなど、一切おこないません。

だいたい、ボキボキ、ゴキゴキやるのは強引な手法で、からだの望む変化とは違う方向にいってしまう方が多いようです。
だから、家に帰ってみると、もう歪みが戻ったりというお話をよく聞きます。

ではいったいどうやってやるの・・?ということになるかと思いますが、要は、愉和の操法とは外からではなく、内側からの自然調律が成されるように導くものというふうに言えましょう。
からだは、自発的に治ってゆくものなのです。

ですから、必要とされる刺激は非常に小さいものであり(精妙な手当てなど)、調整そのものはからだ自体が自然の法則に順って、自働的に成されてゆきます。しかもこの間、心地のよい経過があります。
これによって骨も筋肉も内臓も別々ではなく、同時に調整されてゆくわけです。

具体的にどのようなことをするのですか?

「操体法」、「野口整体」をベースにしておりますが、現在はそれらとは異なった趣を呈しており、施術としても非常にソフトなものです。
じゃあよく街でよく見る「ソフト整体なの?」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、いえいえ、たぶんソフト度からいえば、もっともっと比較にならないくらいソフトでしょう。
もしかしたら、受ける方にとってはそっと触れられているようにしか感じられないかもしれません。しかも、とても安らぎを覚える快適な感覚があります。

しかしそれは確実に、「ここしかない場所」「これしかない角度」を決めており、快復していく反応が操者にも伝わってくるものなのです。
ここが、巷によくある治療(整体)院とは決定的に異なる部分です。

つまり外部に結果として表れたコリや歪みなど、目に見える面だけにとらわれて、押したり揉んだりゴキゴキやるもの(ハードかソフトかは別として)とはそもそも出発点から違い、その以前の内部にある「勢い」や「流れ」を読み、むしろそれをコントロールすることによって、力で変えようとするのではなく、自然に快復するように導くようにするわけです。
また、快復の勢いがつきますと、操法後もからだは変わり続けます。

よく、力を入れることもないのに骨も変化して整い、コリがほぐれて痛みもなくなるのを不思議がられ、ときには奇跡のように言われることもあります。
しかしそれは私が不思議な力を使っているわけではなく、からだ自体が自然に変わっていくようになっているからなのです。
シンプルな状態のものは早く、複雑になっているものは時間をかけて調整していくべきものといえましょう。

コリや歪み、そして痛みなどは、必要があって起こっています。
どんなにほぐしても、どんなに矯正しても、必要があるかぎりはなくなりません。
愉和の操法とは、その必要がなくなるようにするものだと思ってください。

手を当てることで、なぜよくなっていくのでしょうか?

特別、整体などの知識を持っていなくても、手を当てていたら、いつのまにか痛みや辛さがやわらいだりすることって、ありますよネ。
「手当て」を人類は、太古から誰でも自然に、本能的に癒しの行為としてやっていたと思うのです。

なぜ?と問うよりも、ひとつやってごらんなさい、と私は言います。
遠方の方から骨折の痛みでご相談をいただいたとき、「手当て」をおすすめしました。
時間はそれなりにかかったけれども、痛みはずいぶんやわらいだそうです。
でも私は、細かい技術的なことは、なにも指示しませんでした。
ただ、受ける方もおこなう方も、双方気持ちよくやるように、とだけ言ったのでした。
これは、やったモン勝ちです。

よくあるのは気を送って患部を治すとか、気を使えばそれだけ減るという考えです。
しかし野口整体の考えは、気が患部を治すのではなく、もともとからだにあった、治ろうとする力を引き出すというものであり、気は使えば使うほど増えるというものです。
愉和法でも、その考えは踏襲しております。

そしてこれはもっとも大切なところですが、これは本来、選ばれた能力のある者だけができるというものなどではなく、すべての人が本来的に備えているものだということです。

もっともっと、家庭のなかでも手当てをするとよいナ、と私は思います。

「気」というのは、どういうものですか?

生きている人間でも死んでいる人間でも、レントゲンに写るものは変わりません。モノだけ見ているからでしょうね。
やはりその違いは、「気」があるかないかということに尽きるのではないでしょうか。

その説明ではいまひとつ腑に落ちない・・、なるほどなるほど、そりゃあそうですよネ。
では仮に、ひそかに憧れていた人にポンと肩をたたかれたとしましょう。
そうしたらあなたはたぶん、嬉しくなるでしょう。そして、その人の笑顔を見て幸福な気分になるのではないでしょうか。
では逆に、一見してそれとわかる、コワイ表情をしたサングラスのオジさんにポンと肩をたたかれたら、どうです?
おそらく、こわばりますよね。

でも不思議です、物理的には同じ「ポンと肩をたたかれた」だけなのに、本人に及ぼす心理的・肉体的影響は180度違いますよね。
これを、科学的に説明するのは、至難の業かと思います。
でも、「気」というのは、そうやって心にも体にも深くかかわっている・・、もっと言いますと、その深奥にあるのではないかと思うのです。

ですから、気が充実していれば丹田が充ち、からだのなかによくなろう、快復しようとする力がみなぎって来るし、もともと病がなくても、より溌剌としようという勢いが、いや増すわけです。
より充実し、より気持ちよく、より活き活きとしようという循環のなかで生を全うできれば、それが健康ではないだろうかと思うのです。

気とは畢竟、生きていまここにあり、それを味わう力を言うのではないかと、私は考えています。
よく、「勝ち組」とか「負け組」とかいいますが、気持ちよく生きるというのは短絡的に誰かを打ち負かすことで得られるのではなく、愉しく、和して、こころ豊かに生きることなのではないかなァと思うのです。
そしてそれこそが、澄んだ、調和した気なのではないでしょうか。

なぜ心地よさが自然の治癒力につながるのでしょうか?

ふだん、あまり気にしてはおられないでしょうけれども、からだはいつもサインを出しています。

毀れてしまうようなムリな動きには痛みをつけ、「その動きはしないでほしい」というメッセージを発信します。
つまり、みずからを守ろうとしているわけですね。
これはみなさん、よくご承知しておられるようです。
だって、痛いところをさらにムリに動かそうとすると、容赦なくもっと痛くなりますから、言ってみれば日々の生活のなかでイヤでも実感(痛感)されているわけです。

では、それと逆というのはないのでしょうか?・・実はあるのです。
ハイ、まったく正反対と思っていただければ宜しいと思います。
つまり、快復への動き(体勢)には快適感覚をつけて、「それをおこなってほしい」というメッセージを送ってきます

ではなぜ、心地よい感覚が起きるのでしょう。
それは、やはりからだ(心身)はいつも「よくなろう」、「活き活きしよう」と思って(?)るのではないかということです。
つまり、からだが望み、求めているから、それを自覚させるために「心地よさ」もまた、感覚の根源として据えたのではないでしょうか。
要は「痛み」も「心地よさ」も、双方からだを守るための大切な感覚ということですね。

これを敏感にすることは、とりもなおさず「心身の自然との対話」を深めることであり、自然の治癒力をはぐくむこととなりましょう。

どこへ行ってもよくならなかったのに、ここでよくなったのにはわけがあるのですか?

当室で操法を受けた方から、しばしば受ける質問です。

いちばん多いのは、単にそれまで巡って来られた治療院が、ポイントが外れていただけというケースです。
症状のあるところが原因ではないことがほとんどですから、わかりにくかったのでしょう。
どこへ行っても改善しなかったから・・ということでお越しになる方も多いのですが、私としては正直なところ、それほどまでにムズカシイ症状なのかなぁ?と首をかしげることもしばしばです。
けれど、なかには本当に難しいと思うこともあります。
これは、症状をうかがっただけでは予測もつきません。

一般には筋肉をほぐし、骨を動かして治そうとする療法が多く存在するようです。
もちろんなかには、上手な先生もおられるようです。
が、どうしてもそのような方法ではよくならないケースが出てくるのです。
なぜならば、治すことすべてを治療者が施術でおこなおうとしていきますと、症状が複雑なほど難度の高い技術を使おうとします。
しかしながら、そうすればそうするほど失敗するリスクも増えますし、しかも、技術だけではどうにもならないレベルのものがあるからです。

愉和でおこなわれることは、からだの「閊(つか)え」を解き、本人の持てる治癒力を引き出し、もっとも理に適った経過によって快復させること、すなわち「治す」のではなく、「治る」ように導くことだけと言ってよいでしょう。

これまでどこへ行っても、また、長期間通ってもよくならなかった症状がよくなってしまうことも多いのは、この違いによります。
ただ、からだの言い分を聞いてあげただけなのですけどネ。

たとえば、ただズレたものを物理的に戻すのではなく、戻るまでの経過のあり方を、からだが自働的にバランスをとっていくコースに沿うようにしてあげます。
私の役割は、その流れを見届けるのみと言ってよいかもしれません。

ですから、私はいささかも他動的に治してはいないわけです。
治るのはからだ自身であり、その滞りのない治癒への過程をスムーズなものにするのが、治療者ということです。それゆえにムダなくムリのない、心身の法則にのっとった、自然の流れによって快復してゆくのです。
いちばんの治療者は名人でも名医でもなく、からだ自身なのです。

具体的な方法に関しては、「症状別施術法」を参照ください。

通う頻度はどれくらいがよいのでしょうか?

まず、痛みなどの症状をどうにかするということであれば、それほど重症でなければ、大半は早期に解決します。
この場合は通常、一週間から三週間に一度くらいの頻度でよいでしょう。
痛みの場合、施術の効果の実感は多くが初回から感じられますが、大きくこじれていたり、原因が複雑に錯綜しているようなケースは、そうならないこともあります。
ただ痛みが軽くなったあと、いかに静かにスムーズに経過させるかということも大切です。
痛くなくなったからといって、すぐにいろいろ動かぬようにしましょう。

症状とは、単なる結果です。
その原因、大本へとアプローチすることが大切です。
そしてまた、症状の大きさよりは、その深さこそがポイントです。
歪みやアンバランスの内攻の度合い、また年齢によっても、操法をすべき期間は変わってきます。
とはいえ、巷の治療院などのように、頻繁に通う必要はありません。

「どこへ行ってもよくならなかった」とのことでお越しになられることも多いですが、大部分は、それほど難しいものではありません。
ただし、あまり揉まれたり骨を動かされたりなど、いじくられ過ぎていますと、やっかいになっていることもあります。

また、一回の操法で、痛みはほとんどなくなるということもあります。
しかし、その症状が出るに到ったバランスの崩れに関しましては、すぐには変わるというわけにはまいりません。
日常のからだの使い方、姿勢などの問題が積もり積もって症状が出るわけですので、その大本を一回でご破算にすることは、少々無理があります。
とはいえ、痛みがなくなった後は、1、2回受けておけば大丈夫でしょう。
そして操法を受ける毎に、身体感覚の味わいも深まってまいりますが、この「味わい」こそが、操法の醍醐味でもあります。

痛み以外のもの、しびれや冷え、だるさ、あるいは生理関係ですが、これも実際は、その内向した深さによってきます。
統計的に言いますと、しびれも早期になくなりますし、生理痛もパッと変わることもあります。
しかしなかには複雑な状況がある場合、それなりの時間が必要になることもあります。
だるさに関しましては、いちがいには言えません。
その内訳によって、腹部などの調整ですぐ変わることもありますが、さまざま歪みや硬結をほどかねばならないこともあります。

あと重い疾患や慢性症、難病などは本人のからだの状況によりますので、これは目安をつけるのは難しいです。
ただ、ご自分でできる方法や注意事項などをご提案し、できるだけ通いつめなくてもよいように指導するよう、心がけています。

体調の定期的な管理、メンテナンスのためであれば月に一回程度で充分です。
心身の深い部分での調和、安らぎを味わっていただきたいと思います。

痛みなど、症状が発生してから行けばよいのでしょうか?

もちろんそれでも構いませんし、そのように利用されている方も多いです。

ただ、操法の本来の目的は痛みをとることや病気治しなどにとどまるものではなく、からだへの気づきを持ってもらい、からだ、そのすばらしさを実感し、信頼に足るということを認識し、活き活き溌剌、気持ちよく生き切ってもらうことこそが、その願いです。
いざ辛くなったときの駆け込み寺のように利用していただいているケースが多いですが、本当にからだを敏感にし、深奥でみずからと対話したいという方には、平常から月に一度程度、お受けになることもお薦めできます。
または、季節の変わり目に受けておきますと、それぞれの季節に応じたからだにスムーズに変わってゆき、疲労を溜めずに済みます。
かけがえのない健康のため、「未病を治す」、やはりこれが望ましくはあります。

愉和の操法は、骨を動かしたり揉みほぐしたりなどの、生体を鈍らせるような他動的なことは一切ありませんので、受ければ受けるほどからだの感受性は高まり、自然治癒力は豊かになります。
また、なにより心身の深いやすらぎを味わうことができます。

あともうひとつ大切なのは、ひどくならないうちにお越しになっていただきたいということです。
症状が進んでいきますと、やはりやっかいなことになってしまいますが、そうならないうちであれば、回数も少なく済みます。

駅の近くなど便利な場所で、看板を出すことはしないのですか?

愉和の操法は、ひとりひとり異なる心身をていねいに診、それに最も適うようにおこなっておりますので、あらゆる意味で効率はよくありません。

みな同じように手足は二本づつ、目はふたつ、口はひとつなのですが、すべて心身、おのおの様相は違います。
まずもって、それを公式に当てはめていこうということにムリがあります。

反応の素早い、敏感なからだもあれば、逆に緩慢でつっかえのあるからだもあります。
よって、操法にかかる時間も、それぞれです。
もちろん、時間をかければよいというものでもありません。
ただ、一回一回を確実に操法していくためには、時間単位などで効率を優先させていては、覚束かないものとなってしまいます。
このあたり、快復に大きな差が出てくるわけです。
コース施術、マニュアル施術でいくらやっても改善しないのは、個別のからだを診ないことに因りましょう。

そういうことがありますので、駅の近くなど、どこかを借りて看板を出し、多くの集客をし、回転率をにらみながら廻す、ということはできないのです。
その代わり、どこへ行ってもよくならなかったという方々が、気持ちよく快復される操法室となっております。
オーダーメイド、テーラーメイドの操法をおこなうため、現在のような質素な形をとっております。