整体は、モノを扱う仕事ではありませんので、作業の効率や利潤を追求することには意味がありません。
たとえばいわゆるマッサージやカイロプラクティック、他力矯正の整体の経験があるからといって、命にふれるような整体をおこなうのに有利というわけではありません。
ひとのからだをさわってきた回数が多ければそれだけアドバンテージがあるかといえば、そんなことはないのです。
また、医学解剖学的知識がどれだけあったって、それがそれだけ役に立つかはギモンですネ。
逆に知識に振り回され、縛られておこなうべきことを見失う可能性が大きくなるのではないでしょうか。
一般の方でも、またプロの方でも多いと思いますが、療法とは治すものだと思っている方が大半なのではないでしょうか。
整体法においては病気は治すものではなく、治るものとしてとらえることが肝要ではないかと思うのです。
筋肉はほぐすべきものであり、骨は矯正するべきものであり、内臓は機能を回復させるべきものという観念が一般的であるようですが、このように別々に分けて考えているからうまくいかないことが多いのではないでしょうか。
硬結(コリ)というのは筋肉にも骨にも内臓にもあります。
直感にしたがっていきますと、区分けはあまり意味がないことがおわかりいただけるのではないかと思います。
当てるべき箇所に手を当てていきますと、筋肉も骨も内臓も、自律神経や内分泌系もまるごと整っていくからです。
治すのではなく、自然に治るように導くのが整体の指導者でありまして、加うるに整体操法中は、必ずこころを静かにしていなければなりません。
こころが静かであればあるほど、クライアントのからだとの対話が深くなります。
ことほど左様に精細な作業が必要になものが整体というものであり、またそこには指導者のまるごと人格が注ぎ込まれるということでもあります。
したがって操法中だけが整体指導者で、日常では腹黒い、ということはあり得ません。
ですから常に、人間性、品格、品性というものが問われるということです。
上記にもありますように、操法というものは指導者の人格すべてが表現されるべきものであるとともに、命がけでおこなうべきものでもあります。
だからといって身を削るとか、ひたすら奉仕するとかいうのはまったく違います。
気の交歓、また調和を実現することこそが本道であるべきで、それがためにこころを静かにし、耳を傾けるようにクライアントのからだとの対話するわけです。
つまり繰り返しになりますが、操法をしているときだけ癒し人になり、それ以外は別の人格になるというようなことはゼッタイにあり得ないわけです。
また、余計なリップサービスも要りませんし、お世辞やゴマすりも必要ないでしょう。
操法以外においても虚飾を求めず、つねに本質を見据えること。
喜ばしいこともそうでないことも存分に味わうこと。
心豊かに生きること。
当然のこと、すべてにおいて明鏡止水の地平に在ることは不可能です。
かくいう私も、やはりちょっとしたことで心がざわついたりもします。
しかしながらそうではあっても、常に本質の世界に立ち戻り、みずからがこの世界に存在しているという一番の奇跡に感謝をし、こころを静かにしていくことがなにより大切なのではないかと考えています。
起こったこと、起こることをすべてあるがままに受け入れ、その意味を味わうことができること、これを私は「彊い」ことと考えています。
ところがこれがムズカシイ。
人生の最初の段階で悲惨な境遇に遭遇した人は、どうしても人生を「生きにくいもの」として受け取りがちになってしまいます。
すべてを悪い方向に考えたり、とにかく最悪の事態ばかりを想定してしまうこともありましょう。
しかしそれだけですと、どうしてもドツボにはまってしまう傾向になってしまいます。
それでなくとも、あるがままをすべて受け入れるのは大変に難しいことです。
なかには、うらやましいくらいに天真爛漫に生きることができる人もありますが、しかしながらおおかたの人々はそうはできません。
少しでも自分をとりまく境遇の意味を汲み、それを受け入れるように努力するのも、整体指導者の務めかもしれません。
整体は、金儲けのためにやるべきではありません。
お金を儲けるためであれば他の仕事を探すべきで、命にふれるべき生業を儲け業に転換してしまうのは、本末転倒でしょう。
この世でもっとも生命の神秘にアプローチできる、幸福であるべき仕事でもあります。
そうであるからこそ、クライアントにも、自分自身にもウソをつくことは許されません。
これは確か野口昭子さんがおっしゃっていたのではないかと思いますが、
「子供や動物がなつくような」人柄。
もしも腹黒い人間であるならば、子供や動物にはどうやったって隠しおおすことはできません。
また、平気でイジメをする人間は整体をする資格さえないと考えます。