愉和の整体について、受けたことのない方から、また受けた方からも、どのようなことをやっていたかなど、よくご質問をいただきますので、その成り立ちを中心に、少しくわしくお話したいと思います。
まず、力を使ってほぐしたり骨を動かしたりする強制的な手法ではありません。
からだを読み、その言い分を聞くことから愉和の整体は始まります。
愉和の整体のベースとなっているのは、「野口整体」と「操体法」です。
特筆すべきは、双方「からだを信頼する」療法ということです。
施術者の了見によって、作為的に骨を動かしたり、押したり揉んだりするものではありません。
たとえば腰痛の場合、また、たとえば肩こりの場合、「なにをアレしてどうする」というようなマニュアル的技術はありません。
どのように操法すればよいか。
それは、からだにしか答えはないのです。
コッているからほぐすのではなく、いかなる経緯でコッているのか検証し、歪んでいるならば歪みを矯正しようとする前に、なぜそこが歪まねばならなかったのかを解読しなければなりません。
このようにからだを読んでいけば、患部にただちにさわることに意味がないことが諒解できるはずです。
おためごかしではなく、大本から整え、自然の法則に順った改善をはかるには、ことほど左様に精細に観察をし、精妙に調整することが大切です。
また、かくのごとき調整をおこなうことが、なにより早い快復をもたらします。
野口整体とは、いわゆる一般的に考えられている「整体」とはまったく異なります。
そもそもは、野口晴哉が子供の頃に関東大震災に遭い、そこで衛生状態の悪いなかで下痢などに苦しむ人々を見かね、思わず手を当てて癒したところから、野口整体は始まります。
手を当てて治るものですから、からだの持つ生命力に感じ入り、興味を注がれたのですね。
その後、整体操法制定の会を設け、とにかく効果のある操法を集めるようになります。
このときは、まさに治療のための整体ともいうべきものでした。
当時は人間関係も濃密でしたから、現代と単純に比較することはできませんが、口コミで彼の治療を求める人が拡がり、門前列をなしていたと聞きます。
それほどまでに、彼の治療の効果は大きかったということでしょう。
ただし後に、「不摂生の後始末を上手にやればやるほど、不摂生を助長する」ということで治療を捨て、活元運動を主体とした指導に移行していきました。
また、野口整体とは治療や活元などのほかにもまだ妊娠・出産、育児・教育など多岐にわたっており、ひとことでくくるのは大変ムズカシイ。
ひとつ言えるのは、単なる方法論、テクニックにとどまるものではないということです。
いかによりよく生きるか、その人なりの生を全うするかということこそが、整体法の真骨頂といえるのかもしれません。
愉和の整体における、この野口整体の影響はとても大きいと言えます。
整体法がなければ、現在の愉和はなかったでしょう。
操体法もまた、愉和の操法のエッセンスの要となっています。
操体法のユニークなところは、可動域の狭い、辛い方をどうにかしようとするのではなく、ラクな方へ逃げ、気持ちのよい方へと赴くところにあります。
ともすると、痛い方、辛い方をどうにかしなきゃということで、ボキボキ、ゴリゴリやりがちのようですが、そこから逃げ、さらに気持ちよさを味わっているとアラ不思議、悪い方もよくなっています。
このような現象が、操法を受けている方にふつうに起こりますから、フシギの療法のように思われることもあります。
ただしこれは実は、天然自然、生物が本来やっていること以外のものではありません。
たとえば野生の動物などは、このようにして健康を保っているのですネ。
もともとは高橋迪雄の「正体術」という、可動域の広い方へからだを動かして調整する療法からヒントを得たものですが、それを発展させ、絶妙な誘導や介助を与えることで、「気持ちのよさ」で調整されるようになりました。
ちなみに正体術の応用は、野口整体のなかでも取り入れられています。
操体法もまた、単なる治療術にとどまるものではなく、気持ちよく生きる、生き方の智慧とも言うべきものです。
野口整体と操体法、これらは限りない生命への信頼によってはぐくまれ、現在なお発展しています。
生体への「性善説」と言ってよいでしょう。
最初、私は操体法と野口整体を同時に使っていました。
とはいえ、両方のいいところどりをして、便利に使い分けていたつもりはありません。
双方、からだを信頼する手法です、同じひとつのものとしてやっていました。
ところが、さまざまな症状の方を拝見するうちに、治そうと画策しなくても、からだはからだで自分で勝手に整い、よくなっていくことがわかってきました。
そしてこれは、からだがいちばん望むような状態になったときにいちばん変わることも諒解できました。
つまり、受けるご本人が「気持ちよく」感じる状態です。
また、からだが変化する(整う)のは、外側からの刺激の極力少ない条件下においてであることもわかりました。
すなわち、施術者がおこなうのは揉むことでも骨を動かすことでもなく、ただ「手を当てる、もしくは気を充てる」以上ではないことが理想なのではないか。
操法をするとからだが大きく変わりますので(症状、バランス、重心など)、よく、「気を入れているのか」などと聞かれるのですが、いえいえ、私はいっさいからだを変えたりはしていません。
骨格も筋肉も、内臓も、はたまた内分泌系も、からだ自身がおのずと変わるのです。
私は、そうなるように誘導するだけです。
かくして、愉和の整体は操法のあいだ、動きはほとんどありません。
しかし、からだの内側では大きく動いています。
さらに、からだがもっとも望む快復のコースを辿るわけですから、マッサージなどでは味わえない、深い部分からの気持ちよさがあります。
愉和の整体を受けた方からの感想は、「なんで痛みがこんなに取れちゃうのかフシギ・・」というものから、「ただ味わっていたのだけれど、起きてみるとからだが大きく変わっていてビックリした」、「終わったあと、気持ちがよくてからだを動かすのがもったいない」というものまでさまざまありますけれど、繰り返しになりますが大切なことは、私が治しているのではないということです。
私の役割は整ってゆく反応をうながし、快復していくのを見届けることのみです。
治るのは、からだそのものなのです。
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日々操法をおこなうなかで、うれしいこともあります。
何度か愉和で操法を受けられた女性が、
「操法を受ける前にHPを読んだけど、よくわかりませんでした。だけど、いざ受けてみると気持ちのよさも、自然にからだが快復していくことも体感できました。それからまたあらためてHPを読んでみたら、からだに染みこむように理解できました」
と、おっしゃってくださいました。
整体屋冥利に尽きるというものです。
こんなふうに、からだは気持ちよくしていれば整うこと、からだの喜ぶのを体感し、からだを信頼して生きることが大切なこと、そして、それが特別なことでないことも理解していただける方が、少しづつでも増えていっていただければ、それこそ私の本望です。
「あーよかった、治った」だけではもったいない。
痛い痛くないだけではなく、「からだの深い部分との対話」として操法をお受けになりますと、治療効果とともに、身体感覚などで豊饒な気づきを得ることができましょう。
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