愉和の手法は実際には、手をふれることすらもないと述べました。
よく聞かれることでもありますで、この施術法自体、少しくご説明いたします。
まず愉和法とは「観察」と「操法」、この2つで成り立ちます。
そしてからだを観察するときも、操法をするときも同じように、ただそっと、意識を向けるのみです。
「意識を向ける」ということがわかりにくければ、「気を送る」と思っていただいて結構です。
ご案内のように、かくのごとく極限まで刺激を削ぎ落とした方が、施術の通りがよいのです。
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愉和法において観察とは流れを読むこととなり、操法とは流れの元にアプローチをすることとなります(ちなみにこの「流れ」とは実は、誰にでもわかるものでもあります)。
なぜ流れを読むことが必要か、これをざっくりと解説しますと、流れ(〇→●)の「元」の方(〇)に本質的な問題があり、そこから矢印の方向の「先」(●)に症状が出るからなのです。
つまり表出している病気の患部や症状(●)はただの結果であり、それを発出させている原因(〇)が別にあるということになります。
ですから先にある症状(●)にアプローチをしても意味はなく、元(〇)を正さなくてはなりません(医学をはじめ、あらゆる療法がおかしている間違いは、「先」の(●)にしかアプローチをしないところから始まっています)。
このようなワケで、結果(●)ではなく原因(〇)を見つけるために「観察」をし、その原因(〇)をほどくために「操法」をします。
この作業を繰り返し、最終的な大本の「元」へとたどり着き、その根源の問題がほどけることにより、もって病の必要がなくなるということになるわけです。
愉和法とはかくのごとき施術法なのですが、幸か不幸か施術の見た目に関しては、とてもなにかやっているようには見えません。
要はなにもしない、ただ座ってほぼ瞑目してるだけというふうにしか目に映らないハズです。
ですから操法後、よく驚かれます。
まるで奇跡を起こしたかのようにも言われます。
私にとっては、ひたすら予定通りということになるのですが。
ところがおからだの状態によっては、一回では自覚症状にさしたる変化があらわれないこともゼロではありません。
もちろんこれはケースとしては少数派ですが、私とて神ならぬ身、摂理を超えてまでおからだを早くに変えることはできないのです。
実際には氷山の水面下に変化はあるのですが、水面上に現れるまで、どうしても回数を必要としてしまうこともあります。
しかしながら真実に照らし合わせていきますと、もっとも問題を自然の法則にしたがって調整するために、最善をおこなっていることに間違いはありません。
繰り返しになりますが、本当に深い部分にまでアプローチするためには実は、このような無為の操法がいちばん適っているのです。
横浜市戸塚区 整体 愉和 清水